Rust派とGo派が今日も戦っている ― 技術が宗教になる瞬間
最近、SNSを眺めていたら、またいつもの光景が流れてきた。
Rust派とGo派が戦っている。
少し前はTypeScript派とJavaScript派だったし、その前はEmacs派とVim派だった。そのまた前はJavaとC#だった気もする。
どうやらエンジニアという生き物は、定期的に何かを理由に戦わないと死んでしまうらしい。
もちろん表向きは技術的な議論だ。
メモリ安全性がどうとか。 コンパイル速度がどうとか。 エコシステムがどうとか。
しかし、しばらく観察していると気づく。
途中から誰も技術の話をしていない。
話しているのは「自分の人生の正しさ」だ。
人生を賭けた投資だから仕方がない
考えてみれば当然かもしれない。
エンジニアは何年もかけて技術を学ぶ。
休日に本を読み、夜中にエラーと戦い、仕事で経験を積み、ようやく一人前になる。
仮に10年間Rustを書いてきた人がいたとする。
そこで誰かが、
「最近はAIがあるからRustなんていらないですよね」
と言ったらどうなるか。
技術の話では済まない。
「お前の10年は無駄だった」
と聞こえてしまう。
もちろん相手はそんなことは言っていない。
だが脳は都合よく翻訳する。
人間の自然言語処理エンジンは、どうやら最新のLLMよりハルシネーションが激しい。
本当に守りたいものは何か
技術論争を見ていると、面白いことに気づく。
誰も技術そのものを守っていない。
守っているのは自分のアイデンティティだ。
「自分は正しい選択をしてきた」
「自分の積み重ねは価値がある」
「自分の専門性はまだ通用する」
そう信じたい。
だから技術を批判されると反射的に反撃する。
まるで子どもの頃に自分の好きな野球チームを馬鹿にされた時のように。
ただ、50歳を過ぎたおじさん同士が最新言語を巡って殴り合っている姿を見ると、なかなか味わい深いものがある。
技術は手段だったはずなのだが
ここで少し不思議なことがある。
エンジニアは普段、
「手段と目的を混同するな」
と言う。
ところが技術の話になると急に忘れる。
本来、技術は道具だ。
お客さんの課題を解決するためのものだし、サービスを動かすためのものだ。
極端な話、システムが安定して利益を生み、お客さんが満足しているなら、裏側がGoでもRustでもPHPでもCOBOLでも、それほど重要ではない。
しかしSNSを見ていると、
「そのシステムで誰が幸せになったか」
よりも、
「どの言語を使ったか」
の方が重要らしい。
不思議な世界である。
大工がノコギリのメーカーを巡って毎日罵り合っていたら少し心配になるが、エンジニア界隈では比較的よくある光景だ。
私も他人事ではない
偉そうなことを書いているが、もちろん私も例外ではない。
長年AWSを触っているので、
「全部オンプレでやればいい」
と言われると少し反応したくなる。
逆にオンプレのベテランから見れば、
「最近の若いやつは何でもLambdaにしたがる」
となるだろう。
結局、人間は自分が投資したものを正当化したい生き物なのだ。
株でも同じ。
推しのアイドルでも同じ。
技術だけが特別なわけではない。
今日も戦いは続く
たぶん明日もSNSでは誰かが戦っている。
RustとGoかもしれない。
ClaudeとChatGPTかもしれない。
あるいはAIがエンジニアを奪うかどうかかもしれない。
そして当人たちは真剣だ。
だが少しだけ引いて眺めると、案外単純な話に見えてくる。
みんな、自分の人生を否定されたくないだけなのだ。
そう考えると、技術論争の多くは技術の問題ではない。
自尊心の問題である。
だから私は最近、SNSで熱い論争を見るたびにこう思う。
「この人たち、たぶん同じ案件に入ったら普通に協力してシステムを作るんだろうな」
と。
現場では案外みんな大人だ。
戦争が起きるのは、だいたい締切も責任もないインターネットの中だけである。