ブリッジSEをやって分かった。伝わらない理由の9割は、語学ではない
会社員時代、ブリッジSEを何度かやった。
日本のお客様と、海外の開発チームの間に立って、開発を回す仕事である。
当時、開発の一部を海外のチームに任せる、いわゆるオフショア開発が盛んだった。
コストは下がる。
その代わり、間に立つ人間が要る。
それが私だった。
引き受けたとき、正直こう思っていた。
英語は、まあまあできる。
TOEICのスコアも悪くない。
技術も分かる。
なんとかなるだろう、と。
実際にやってみて、思い知った。
言葉が通じることと、話が通じることは、別物である。
「いい感じにお願いします」が訳せない
最初につまずいたのは、日本側から流れてくる指示だった。
たとえば、こういうものである。
「ここは、いい感じに調整してください」
「一般的なECサイトと同じ挙動で」
「常識的な範囲でエラー処理を入れておいてください」
日本のチーム内なら、これで通じる。
実際、長年これで回ってきた。
だが、これを英語に訳そうとして、手が止まる。
「いい感じ」とは、何か。
私は「いい感じ」を辞書で引く代わりに、日本側の担当者に聞きに行くことになる。
「いい感じって、具体的には?」
すると、面白いことが起きる。
聞かれた本人も、すぐには答えられないのである。
「えっと……余白はこれくらいで、色はトーンを合わせて、崩れないように……」
つまり「いい感じ」の中身は、本人の中でも言語化されていなかった。
それでも日本のチームでは通じていた。
同じ案件を長くやり、同じ市場を見て、同じ失敗を共有してきた者同士の、暗黙の前提が埋めていたのである。
伝わらない理由の9割は、前提の差
ブリッジSEを続けるうちに、はっきり分かってきた。
翻訳に失敗して揉めたことは、ほとんどない。
揉め事の原因は、いつも同じだった。
書かれていない前提である。
日本側の仕様書は、行間で書かれている。
書いていないことも「常識で」汲み取ることが、暗黙の品質基準になっている。
一方、海外チームは、書かれたものを正確に作る。
そして「仕様通り作ったのに、なぜ怒られるのか」と困惑する。
彼らは正しい。
書いていないものは、存在しないのだから。
怒る日本側も、悪気はない。
「言わなくても分かる」世界で、ずっと仕事をしてきただけである。
つまり、ブリッジSEの本業は、翻訳ではなかった。
行間を、仕様に書き起こす仕事だったのである。
「いい感じ」を、余白のピクセル数に変える。
「常識的なエラー処理」を、ケースの一覧表に変える。
「一般的な挙動」を、画面遷移図に変える。
暗黙知の輸出入業。
それがブリッジSEだった。
英語力は、この仕事の1割くらいしか占めていなかったと思う。
この技術は、国内でもそのまま使えた
ブリッジSEの経験には、思わぬ副産物があった。
日本国内の仕事が、うまくなったのである。
考えてみれば、当然だった。
前提の違う相手は、海外にだけいるのではない。
営業と開発。
経営と現場。
発注側と受注側。
同じ日本語を話していても、前提はそれぞれ違う。
「なるはやでお願いします」の「なるはや」が、営業と開発で3週間ずれている、という話は、どこの会社にもあるはずだ。
ブリッジSEをやる前の私は、国内の仕事で行間が読めることを、当たり前だと思っていた。
やった後の私は、行間は読めても、読めたことを確認するようになった。
「いい感じ、というのは、具体的にはこういう理解でいいですか」
一手間である。
だが、この一手間の有無が、後工程の手戻りを大きく左右する。
異文化と仕事をした人間の本当の収穫は、語学ではなく、自文化の「暗黙」が見えるようになることなのである。
そして、AIという「外国人メンバー」が来た
この話には、現代的な続きがある。
いま、私は毎日AIに指示を出して開発をしている。
そして最近、よく思うのだ。
これは、ブリッジSEの仕事と同じである。
AIは、猛烈に優秀で、猛烈に素直な、前提を共有しないメンバーである。
書いたことは、正確にやる。
書いていないことは、AIなりの「一般常識」で埋める。
そしてその一般常識は、こちらのプロジェクトの常識と、微妙にずれている。
「いい感じにリファクタリングして」と頼めば、AIなりのいい感じが返ってくる。
こちらの「いい感じ」と違っても、それはAIのせいではない。
書かなかった、こちらのせいである。
オフショア開発で私たちが学んだ教訓は、そっくりそのままプロンプトの教訓になった。
前提を書く。
基準を数字にする。
「常識で」を禁句にする。
ブリッジSE経験者は、AIへの指示がうまい。
私の周りを見る限り、この説はけっこう当たっている。
行間の値段
30年前、行間はコストゼロの潤滑油だった。
言わなくても分かる相手とだけ仕事をしていれば、行間は効率そのものである。
でも、相手が海外チームになり、フリーランスになり、そしてAIになった。
言わなくても分かる相手は、どんどん減っていく。
行間は、潤滑油から、リスクに変わったのである。
だから私は今日も、AIへの指示書に、かつて「言わなくても分かった」ことを、せっせと書いている。
ブリッジSEの仕事は、なくなっていなかった。
橋の向こう側が、海外からAIに変わっただけである。