判定に不服が出るのは、負けたときだけ
私はサッカーにほとんど興味がない。
なので朝ニュースを見て、ワールドカップで日本代表が初戦で敗退したことを知った。
相手はブラジルだったらしい。
一部のファンの間では、審判の誤審で負けたという話になっているらしい。
まあ気持ちはわかる。
応援しているチームが負けた。
しかも微妙な判定があった。
そうなると、どうしても「あれがなければ」と言いたくなる。
しかし日本のサッカーファンには怒られるかもしれないが、正直、相手がブラジルなら負けてもそこまで不思議ではない気がする。
もちろん日本代表が弱いと言いたいわけではない。
ただ、ワールドカップの決勝トーナメントでブラジルと当たって、「勝てたのに審判のせいで負けた」とまで言い切るのは、少し話が飛びすぎている気もする。
スポーツ観戦とは、そういうものなのだろう。
私はサッカーに詳しくないので、その判定が本当に誤審だったのかどうかはわからない。
ただ、審判も人間である。
当然、間違えることもある。
だからこそVARのようなビデオ判定も導入されているのだろう。
ワールドカップでも導入されているはずだ。
それでも、すべての判定が完全に納得できるものになるわけではない。
スポーツには、どうしても運が残る。
審判の判定。
ボールの跳ね方。
相手との相性。
その日のコンディション。
全部含めて勝負である。
そういえばドイツも負けたらしい。
格下と見られていたパラグアイに負けたようだ。
そしてそこでも、審判の誤審がファンの間で問題になっているらしい。
日本も負けて審判。
ドイツも負けて審判。
こうなると、だんだん世界中の敗者が同じ台本を読んでいるように見えてくる。
もちろん、本当に問題のある判定もあるだろう。
誤審が勝敗に影響することもある。
だから審判批判がすべて悪いとは思わない。
ただ、あまりにもそればかりになると、少し負け犬の遠吠えに見えてしまう。
勝った側は、あまり審判の話をしない。
「いや、あの判定は相手に同情しますね」とわざわざ言う人は少ない。
判定に不服が出るのは、たいていやられた側だけである。
これはスポーツに限らない。
仕事でも同じだ。
うまくいったときは、自分の実力。
失敗したときは、上司が悪い。
会社が悪い。
クライアントが悪い。
タイミングが悪い。
市場が悪い。
人間は、自分が傷つかない説明を作るのが非常にうまい。
心理学には、セルフ・サービング・バイアスという言葉がある。
成功は自分の能力のおかげ。
失敗は外部要因のせい。
ざっくり言えば、そういう都合のいい心の働きである。
たしかに、そうでもしないと人間は生きていけないのかもしれない。
何かに失敗するたびに、
「全部自分が悪い」
と考えていたら、メンタルが持たない。
だから多少は、自分を守る物語も必要なのだろう。
ただ、その物語に逃げ込みすぎると、次に進めなくなる。
審判が悪かった。
運が悪かった。
相手が汚かった。
環境が悪かった。
そう言っている間は、自分たちが何を改善すべきだったのかは見えにくい。
そして次に同じような負け方をしても、また別の外部要因を探すことになる。
もちろん、人生には本当に理不尽なことがある。
努力ではどうにもならないこともある。
だから「全部自己責任」と言うつもりはない。
しかし同時に、「全部自分は悪くない」もまた危ない。
それはそれで、かなり都合のいい世界観である。
スポーツの敗戦後に審判を責め続けるファンを見ていると、人間の脳は本当に優秀だと思う。
事実を分析するより先に、自尊心を守る説明を生成する。
しかも高速で。
AIのハルシネーションを笑っている場合ではない。
人間は昔から、自分に都合のいい物語を生成することに関しては、かなり高性能だったのである。