不合理なものにも理由はある
昨日、YouTubeで世界史の講義動画をぼんやり見ていたら、ヒンズー教の身分制度の話が出てきた。
正直、日本人の感覚からすると、生まれた瞬間に職業や立場が決まっているなんて信じられない。差別を助長するような仕組みは絶対に受け入れられないし、それが現代社会の常識だと思う。
ただ、講義の先生が面白いことを言っていた。
「差別はいけないのは大前提。でも、数千年もの間そのシステムが維持されてきたなら、それなりの合理的な理由があったはずだ」
その言葉を聞いて、自分の中の「今の価値観だけで過去や他文化を裁こうとする癖」に気づかされた。
その先生の説明では・・・・
職業が世襲制ということは、見方を変えれば、一生仕事に困らないということでもある。生まれた瞬間から進む道が決まっているから、進路に悩み続ける必要もない。
失業に怯える必要はないし、人生で何をすべきかと悩む必要もない。受け入れられるなら極めて安定した人生である。
現代の私たちは自由を手に入れた。しかしその代償として、「自分は何者なのか」「どう生きるべきか」という終わりのない問いを抱えることになった。
ということだった。
もちろん、理不尽さや不公平さを正当化するつもりはない。それでも当時の人々にとっては、その理不尽さを受け入れることが社会の安定や生活の保障につながっていたのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、昔一緒に働いたインド人エンジニアたちのことを思い出した。
彼らは時々、日本人とは違う発想で問題に向き合う。今のインドのIT業界は、伝統的なカーストの枠組みでは説明できない新しい職種らしい。だからこそ、才能さえあれば上を目指せる場所として、特に差別されがちなカーストの人材がものすごいエネルギーで集まっている。
伝統と変化が同時に存在する社会の中で、自分の力で新しいレールを敷こうとする姿は、見ていて純粋にすごいと思う。
結局のところ、「差別はダメだ」で思考を止めるのは簡単だ。
本当に理解しようと思うなら、「なぜそんな仕組みが生まれたのか」「どんな役割を果たしていたのか」を考えなければならない。
これは歴史だけの話ではない。
エンジニアとしてレガシーコードを見るときも同じだ。一見すると意味不明な実装でも、掘ってみると当時の制約や事情が見えてくる。
不合理なものには、不合理なりの理由がある。
そう考えるだけで、世界の見え方は少しだけ広がる気がする。
……などと偉そうなことを考えていたのだが、今日の私は昼食を決めるだけで5分も悩んでいた。
自由というのは、案外めんどくさい。