美談と違和感
今日は何もせず、珍しく昼間からテレビを見ていた。
ある俳優さんが、高校生の頃の留学体験を語っていた。
アメリカの高校に入ったが、最初の3か月は日本人という理由でいじめを受けたそうだ。
その地域は田舎で、アジア人がほとんどいなかったらしい。
そんなある日、学校のパーティーで思い切ってステージの中央でダンスを披露した。
すると周囲の見る目が変わり、それ以降は友人が増えた。
「アメリカでは自分から主張しないと認められない。その経験が今の芸能活動につながっている。」
そんな締めくくりだった。
スタジオでは出演者が感動し、涙を流す人までいた。
テレビとしては、とてもきれいな美談だった。
でも私は、どこか引っかかった。
まず一つ目。
日本人だからという理由でいじめられる。
それはどう考えてもレイシズムだ。
高校生だから仕方ない、昔の話だから仕方ない、と片付けていい話なのだろうか。
次に思ったのは、なぜそんな環境へ高校生を送り出したのかということだ。
もちろん、留学先を完全にコントロールすることはできない。
それでも、アジア系住民が比較的多い地域を選ぶという考え方もあったのではないかと思ってしまう。
そして、一番引っかかったのはテレビの演出だった。
困難を乗り越えた。
だから良い経験だった。
そういう物語として消費されていたことだ。
もちろん、この俳優さん本人にとっては、本当に人生を変えた出来事だったのだろう。
その経験を否定するつもりはまったくない。
ただ、私は別のことを考えてしまう。
同じように差別を受けて、心が折れて帰国した高校生もいたのではないか。
アメリカそのものにネガティブな感情を持ってしまった子どもたちも多いのではないか。
テレビには、そういう人は出てこない。
困難を乗り越えた人だけが語られる。
乗り越えられなかった人は、最初から存在しなかったかのように見えなくなる。
だから私は、美談を見るたびに少し身構えてしまう。
美談が悪いのではない。
ただ、美談には語られなかった人たちが必ずいる。
そのことまで忘れてしまうと、「苦労は人を成長させる」という言葉が、いつの間にか「苦労しても乗り越えられない人は努力が足りなかった」という危ういメッセージにすり替わってしまう。
テレビは娯楽だ。
無料で見せてもらっているのだから、深く考えすぎなのかもしれない。
それでも私は、感動のBGMが流れるたびに、画面には映らなかった人たちのことを想像してしまう。
性格が悪いので、美談の裏側も気になってしまうのだ。