日本語という「動的型付け言語」の使い心地

最近、英語でこのブログを書いていて改めて思うことがある。

日本語って、英語と全然違う。

よく「日本語は文法がゆるい」と言われる。 でも実際に長く使っていると、「ゆるい」というより、そもそもの設計思想が違うんじゃないかと思えてくる。

エンジニアっぽく言うなら、英語と日本語は「型システム」が違う。

英語は、静的型付け言語に近い。 主語、時制、単数か複数か、冠詞の有無——文を組み立てる前に、すべて宣言しないとそもそも文として成立しない。コンパイル時にうるさく文句を言ってくるタイプの言語だ。

一方、日本語はというと、完全に動的型付け言語だ。

単語に助詞や助動詞を後付けしていく「膠着語(こうちゃくご)」という性質のせいか、文を組み立てながら型をあとから決めていける。主語は省略していい。時制も曖昧でいい。何ならオブジェクトが何なのかさえ、最後まで確定しなくていい。

なんというか、

「実行時に何とかなる」

みたいな思想で動いている言語に見える。

もちろん、静的型の厳密さに比べたら抜け穴は多い。 でも、その代わりに異様な柔軟性がある。

特に面白いのが、「結論を最後まで確定しなくていい」というところ。

英語だと、かなり早い段階で Yes / No や主語を置かないといけない。 でも日本語は、

「まあ、その件なんですが……ちょっと状況的に……難しいかもしれないですね……」

みたいに、最後まで逃げながら喋れる。

話しながら相手の顔色を見る。 空気を読む。 途中でトーンを変える。 最後の文末で柔らかく着地する。

ロジックだけ見れば非効率なのだが、人間同士のコミュニケーションとしてはかなり優秀だと思う。

要するに、日本語はリアルタイムの対人インターフェースに最適化されている。

その代わり、哲学や科学みたいな「定義を厳密に積み上げる世界」だと、少し苦労する。

主語は消える。 文脈依存が強い。 「あれ」「それ」「いい感じ」が増える。

プログラムで言えば、グローバル変数と暗黙仕様だらけみたいな状態だ。

でも逆に、「空気」とか「あわい」とか、「なんとなくこういう感じ」を表現する能力は本当に強い。

海外の人が日本語を勉強していて苦しむ理由も、たぶんここなんだろう。

単語の意味だけ覚えても足りない。 場の温度とか、人間関係とか、文脈ごと読まないと意味が変わる。

日本のビジネス会話の「前向きに検討します」が有名だけど、あれなんて極端な例だ。

字面通りに読めば「ポジティブに考えます」なのに、実際の意味はだいたい「丁重にお断り」。 言葉そのものより、背後の空気を読めという世界観だ。

正直、面倒くさい文化でもある。

でも最近は、世界全体が少しずつ「建前社会」化している感じもある。

ストレートに言いすぎると衝突する。 SNSでも、会社でも、できるだけ相手を傷つけない表現が求められる。

そう考えると、日本語的な「余白を残すコミュニケーション」は、ある意味かなり時代に適応しているのかもしれない。

論理を高速に積み上げるなら、英語的な設計の方が強い。 でも、人間同士が摩擦を減らしながら生きるには、日本語の「曖昧さ」は便利でもある。

日本語の「ゆるさ」って、単なる欠陥じゃなくて、

「相手を受け入れるための余白」

なのかもしれないな、と最近思っている。