英語が使える、のグラデーション
日本の英語教育や世間の空気感って、なぜか英語を「◯か✕か」「できるか、できないか」のゼロイチで捉えがちだ。
先日も「英語できるんですね!」と言われて、ものすごく返答に困った。
「いや、日常会話くらいなら……」
と濁すのもお決まりだが、そもそも「言葉が使える」の本質って、そんな二択ではなく、もっとグラデーション豊かなもののはずだ。
「できる」のベースライン:中華料理屋のコックさん
ここで、街の中華料理屋にいる中国人のコックさんのことを考えてみる。
彼らの日本語は、お世辞にも完璧とは言えない。
アクセントも強いし、文法がちょっと怪しいこともある。
じゃあ、彼らは日本語ができないのか。
そんなわけがない。
厨房でオーダーをさばき、仕入れ業者と交渉し、日本という異国の地で生活し、商売を成立させている。
めちゃくちゃ日本語を使えている。
客側も、
「あの人、助詞の使い方が微妙だな」
などとは思わない。
注文が通り、美味いチャーハンが出てくればそれで十分だ。
言葉とは本来そういうものだと思う。
文法のテストで100点を取ることではなく、自分の目的を達成するための道具。
この「目的を果たせる」という状態こそが、言葉が使える最低ラインなのだろう。
私の立ち位置
だから「英語できるんですね」と言われると困る。
単語を並べるだけのカタコトではない。
かといって、ネイティブ同士の雑談に完全についていけるかと言われると、それも怪しい。
映画を字幕なしで見ていても分からないことのほうが多い。
ジョークも取りこぼす。真に受けたりする。
知らないスラングも大量にある。
ただ、一つだけ確実に言える基準がある。
中華料理屋のコックさんが日本語を使って仕事をしているレベルよりは私は英語を使える。
仕事の会議もできる。
技術的な議論もできる。
海外のエンジニアと意思疎通もできる。
トラブル対応もできる。
実際、英語を使って目的を達成できている。
だから「英語ができるか?」と聞かれたら、本当は「はい」が正しいのだろう。
ただ、日本人はそこに妙なプレッシャーを感じる。
「できる」と言った瞬間に始まる試験
なぜか日本では、
「英語ができます」
と言った瞬間、
「じゃあネイティブ並みに話せるんだね?」
という空気が発生する。
もちろん誰もそんなことは言っていない。
だが、勝手にそう感じてしまう。
だから多くの人が、
「全然できません」
と言う。
英語試験の高得点でもそう言う。
海外出張していてもそう言う。
英語で仕事していてもそう言う。
実にもったいない話だ。
言葉は本来グラデーションなのだから。
- カタコト
- 中華料理屋のコックさんレベル
- 実戦で問題なく使えるレベル
- 流暢
- ネイティブ
本当はこのくらい段階がある。
それを全部まとめて「できる」「できない」の二択に押し込むから話がおかしくなる。
一番しんどいのは中途半端なところ
ちなみに、このブログに載せている英語もかなりAIに添削されている。
文章を書くこと自体はできる。
英語の技術記事も読める。
海外の人とも会話できる。
ただし文法は今でも間違える。
冠詞も怪しい。
前置詞なんて今でもよく分からない。
そして、このレベルの人間には独特の苦労がある。
英語話者から見ると、もう「英語ができる人」に見えるのだ。
だから普通にベラベラ話しかけてくる。
こちらも大筋は分かる。
しかし細かいところで虫食いになる。
知らない表現。
聞いたことのない言い回し。
文化的な前提知識。
そういうものが混ざると突然理解度が落ちる。
だから実際には、
「ごめん、それどういう意味?」
「今の表現知らない」
「もう一回お願い」
を結構な頻度でやっている。
英語が全くできない段階なら相手もゆっくり話してくれる。
ネイティブレベルなら当然困らない。
一番微妙なのは、その中間地点だ。
相手は分かっている前提で話す。
こちらは必死についていく。
まるで推奨レベル100のダンジョンに、レベル70くらいで入っている感覚である。
攻略はできる。
だが雑魚敵が普通に強い。
うまいチャーハンを出せればそれでいい
だから最近は、
「英語できるんですね」
と言われたら、
「まあ、中華料理屋のコックさんが日本語を使って仕事しているレベルよりは使えます」
と答えるのが一番正確な気がしている。
そして、たぶんそのコックさんも同じことを思っているのだろう。
日本で仕事はできる。
生活もできる。
お客さんとも話せる。
でも時々、
「すみません、今なんて言いました?」
が発生する。
でもその店のチャーハンが旨ければ、お客さんは文句を言わない。
評価されてるのは英語力ではない。