「国がどうなっても関係ない」――就職氷河期世代が抱える、社会への“静かな冷淡さ”
こないだ、テレビで就職氷河期世代の特集をやっていた。
非正規雇用の人を正規雇用にするための施策だとか、氷河期世代を支援する制度だとか、そんな話だった。
私もまさにその世代である。
テレビを見ながら最初に思ったのは、
「今さら?」
だった。
もちろん、やらないよりはいい。今も苦しんでいる人がいる以上、支援そのものを否定するつもりはない。
ただ、私たちが20代だった頃にそれをやってくれよ、とは思う。
何十社受けても決まらなかった
私が大学を出る頃は、バブルが崩壊した直後だった。
大学では物理学を学び、コンピュータを使ったシミュレーションなどもやっていた。当時としては、それなりにコンピュータを触っていた学生だったと思う。
ところが就職先がない。
何十社と受けたが、全部落ちた。
今の自分から振り返っても、あの頃の就職活動には独特のがっかり感がある。
自分なりに勉強してきた。技術も身につけた。それなのに社会に出ようとした瞬間、「あなたはいりません」と言われ続ける。
努力が足りないと言われても、では何をすればよかったのか。
そもそも採用していないのだから、どうしようもない。
結局、自力では就職先を見つけられず、研究室の紹介でコンピュータ関係の会社に入った。
ただし、エンジニアではない。
システム販売の営業だった。
私は技術をやりたかった。しかし、そんな贅沢を言っていられる時代ではなかった。
私は、たまたま運が良かった
営業を1年ほど続けたあと、幸いにも私の技術的なバックグラウンドを評価してくれる会社があり、システム開発会社に転職できた。
そこからはエンジニアとして比較的順調にキャリアを積み、今に至る。
30年近くIT業界で仕事をしている。
こう書くと、「努力して人生を切り開いた成功談」に見えるかもしれない。
しかし、自分ではそう思っていない。
たまたま運が良かっただけである。
研究室から会社を紹介してもらえなかったらどうなっていたか。
営業時代に技術を評価してくれる会社と出会えなかったらどうなっていたか。
少しタイミングが違えば、私は今とはまったく違う人生を送っていた可能性がある。
氷河期世代の問題を見ていると、この「少しの運」で人生が大きく分かれた人が大量にいるのではないかと思う。
私はたまたま浮上できた。
浮上できなかった人もいる。
その違いを、すべて本人の努力だけで説明するのは無理がある。
あの頃は「自己責任」で終わった
就職氷河期世代は、今では社会問題として扱われている。
中高年のひきこもりや貧困、非正規雇用の問題がニュースになり、「氷河期世代を支援しなければならない」と政治家が話している。
だから思う。
30年前に気づけよ。
私たちが一番苦しかった頃、世の中の空気はかなり冷たかった。
就職できないのは本人の努力不足。
非正規なのは本人の選択。
キャリアを作れなかったのは自己責任。
だいたいそんな扱いだった。
そして30年経って、少子高齢化が進み、社会保障の担い手が足りなくなり、中高年の生活困窮が社会コストとして見えるようになった途端、
「氷河期世代を救おう」
と言い始めた。
遅い。
あまりにも遅い。
私たちの世代には、社会への独特の冷淡さがある
これは私だけかもしれない。
ただ、同世代と話していると、国や社会に対して妙に冷めている人が多い気がする。
怒っているわけではない。
デモをするわけでもない。
革命を起こしたいわけでもない。
単純に、期待していない。
「日本は少子高齢化で大変です」
そうですか。
「このままでは社会保障制度が維持できません」
そうですか。
「日本の未来のために、みんなで負担を」
知らんがな。
少なくとも私は、そんな感覚がどこかにある。
自分たちが一番苦しかった20代の頃、この国は助けてくれなかった。
それどころか「自己責任」で片付けた。
ならば国が困ったときだけ、「日本の未来のために」と言われても、なかなか感情が動かない。
これは怒りというより、もっと冷たい感情だと思う。
国がどうなっても、私にはあまり関係ない。
ただし、日本が嫌いなわけではない
ここは少し複雑である。
私は日本が嫌いなわけではない。
家族には当然愛着がある。生まれ育った東京にも愛着がある。
日本の文化や歴史も好きだし、日本語も好きだ。
海外に行けば、日本の便利さや治安の良さを実感することも多い。
つまり、文化や歴史、生活の場としての日本にはかなり愛着がある。
しかし、「国家としての日本」や「現在の社会システムとしての日本」に同じ感情を持っているかと言われると、かなり怪しい。
極端な話、中国の一つの省になると言われたら、それは嫌だ。
言論の自由などを考えれば、さすがに困る。
しかし、
「明日から日本はアメリカの一州になります」
と言われたら、
「まあ、それでもいいんじゃない?」
くらいの感覚である。
日の丸を見て涙を流すこともないし、「日本という国家を何としても守らなければ」と強く思ったこともない。
文化としての日本は好きだ。
自分が育った場所としての日本にも愛着がある。
しかし、国や社会は私たちを守ってくれる存在ではない。
そう思っている。
ただ、この論理には危ういところがある
結局、私たち就職氷河期世代は、若い頃に社会から一つのことを教えられたのだと思う。
国や会社を当てにするな。自分で何とかしろ。
だから私は技術を身につけた。
会社を辞めても食べていけるようにした。
50代になった今でもAIを追いかけ、新しい技術を勉強している。
国が老後を守ってくれるとも思っていない。
ある意味、非常に従順な生徒である。
30年前に社会から教えられた通り、自分のことは自分で何とかしようとしている。
だから今さら、
「日本の未来をみんなで考えましょう」
と言われても、なかなかその気にはなれない。
あなたたちが教えたんでしょう。自分のことは自分で何とかしろ、と。
しかし、この考え方には非常に危ういところがある。
私が自分と家族のことだけを考える。
会社は自社の利益だけを考える。
国会議員は次の選挙と自分の地位を優先する。
公務員は国民よりも、自分の組織と退職後を優先する。
みんなが「自分を守ることの何が悪い」と考え始めたら、社会はどうなるのか。
一人ひとりの行動には、それぞれもっともらしい理由がある。
自分だけが損をするのは嫌だ。
自分だけが真面目にやっても仕方がない。
他の人もやっている。
制度の範囲内なのだから問題ない。
そうやって全員が少しずつ自分を優先した結果、誰も公共のことを考えなくなる。
社会のモラルは、ある日突然、悪人によって破壊されるのではないのだと思う。
普通の人がみんな、「なぜ自分だけが正直でいなければならないのか」と考え始めたときに崩れていく。
最近のニュースを見ていると、すでにそんな話であふれているように感じる。
政治家も、官僚も、企業も、個人も、自分や自分の組織を守るために動く。
そして問題が表に出ると、それぞれが「自分だけが悪いわけではない」と説明する。
たぶん、その説明は本人の中では本当なのだろう。
だからこそ厄介なのである。
若い頃に切り捨てられた人間が、社会に冷淡になるのは不思議ではない。
しかし、その冷淡さが社会全体へ広がれば、最後には誰も助けてもらえない社会になる。
国が私たちに教えた「自己責任」は、確かに私を強くした。
同時に、国や社会を信頼しない人間もつくった。
そして今、その教えを受けた人たちが社会の中心にいる。
みんなが自分のことだけを考える社会では、結局、自分のことさえ守れなくなる。
それが、30年前に始まった「自己責任」という教育の、本当の結末なのかもしれない。