本は「読むもの」から「美術品」になるのか?角川武蔵野ミュージアムで考えた
休日は健康のために、とにかく歩くようにしている。
別に意識が高いわけではない。家にいると本当に動かないので、強制的に外に出て歩いているだけだ。
昨日も特に行きたい場所があったわけではないが、電車ですぐ行ける距離にある角川武蔵野ミュージアムまで行ってみた。
ウォーキングの延長である。
正直、それほど期待していなかった。
行ってみると、一言で言えば「巨大で、ちょっと変わった本の博物館」だった。
本棚が巨大になると、それだけで人は圧倒される
館内には巨大な本棚がある。
本棚というより、壁である。
そこにプロジェクションマッピングが映し出され、本そのものをスクリーンの一部として使っている。
他にも変わった本や珍しい本が大量に並んでいて、「本を読む場所」というより「本を見る場所」に近い。
館内にはそれなりに人がいた。
しかし、しばらく見ていて気づいた。
誰も本を読んでいない。
もちろん多少はページをめくっている人もいるが、図書館のように椅子に座って黙々と読む人はほとんどいない。
私も読んでいない。
巨大な本棚を見上げて、「すごいな」と思っているだけである。
唯一、熱心に本を読んでいたのは、1階の漫画コーナーにいた子供たちくらいだった。
大人は本を見て、子供は漫画を読む。
なかなか面白い光景だった。
本は美術品になるのかもしれない
そこでふと思った。
本は将来、「読むもの」ではなく「美術品」に近い存在になるのではないか。
今はスマホでもタブレットでも本が読める。
情報を得るだけなら、紙である必要はほとんどない。
検索もできるし、何百冊持ち歩いても重くならない。文字も大きくできる。
どう考えてもデジタルのほうが便利だ。
私自身、本に特別な思い入れがある人間でもない。
「やっぱり紙の匂いがいいんですよね」
などと言うタイプでもない。
それでも、巨大な本棚に何千、何万という本が並んでいる光景を見ると、なぜか圧倒される。
人類はこんなに大量の文章を書いてきたのか、と。
おそらく同じ量のPDFファイルがクラウドストレージに保存されていても、何も感じない。
「使用容量 3.8TB」
と表示されて終わりである。
データには存在感がない
これは本に限った話ではないのかもしれない。
デジタル化すると便利になる。
しかし、便利になる代わりに「存在感」が消える。
1万冊の本は巨大な空間を埋める。
1万冊の電子書籍はスマホの中に入る。
情報量は同じでも、人間が受ける印象はまったく違う。
だから将来、紙の本は情報を伝える道具としては少しずつ役割を減らし、その代わりに「物として存在すること」自体に価値が出てくるのかもしれない。
絵画と少し似ている。
モナ・リザの画像ならネットでいくらでも見られる。
それでも人は本物を見るために美術館へ行く。
本も同じようになるのだろうか。
読むならデジタル。
本物を見たければ博物館へ行く。
そんな時代が来ても、それほど不思議ではない気がする。
巨大な本棚を見上げながら、そんなことを考えていた。
ちなみに、私が館内で唯一気になったのはコンピュータ関連のコーナーだった。
一応、本棚を眺めてみたのだが、並んでいる本は少し古い感じがした。
結局、一冊も手に取らなかった。
ここまで「古い本には実体としての価値があるのではないか」と考えていたのに、技術書に関しては古いというだけで興味を失う。
少なくとも私にとって、古い技術書はまだ美術品にはなっていないようだ。