『嫌われる勇気』を読み返して、少し引っかかった話
久しぶりに読み返してみた
先日、久しぶりに『嫌われる勇気』を読み返した。
『嫌われる勇気』は、アドラー心理学を対話形式で解説した日本のベストセラーである。
アドラー心理学は、オーストリアの心理学者アルフレッド・アドラーの考え方をもとにした心理学で、「人は過去に縛られるのではなく、これからどう生きるかを選べる」という見方を重視する。
その中でも有名なのが「課題の分離」という考え方だ。
自分が何をするかは自分の課題。
それを相手がどう受け取るかは相手の課題。
この線引きをすることで、他人の評価に振り回されずに生きよう、というのが『嫌われる勇気』の中心にあるメッセージの一つである。
昔読んだ時よりも、内容はずっと理解できるようになっていた気がする。年齢を重ねたせいなのか、それとも仕事で面倒な人間関係を山ほど見てきたからなのかは分からない。
課題の分離に関して、理屈としてはその通りだと思う。
SNSを眺めていると、特にそう感じる。
誰かが何かを発信し、それに対して賛否が飛び交う。フォローが外れたり、ブロックされたり、時には炎上したりもする。
だが、SNSの人間関係は基本的に「切れる関係」だ。
合わなければ離れればいい。
嫌われても生活は続く。
だからこそ、「嫌われる勇気」は非常に機能する。
SNSと仕事は同じなのか?
ところが、本を閉じたあとで少し考え込んでしまった。
現実の仕事はどうだろう。
クライアントとの関係。
上司との関係。
取引先との関係。
長年続くチームとの関係。
これらはSNSのフォロワーとは違う。
ブロックボタン一つで終わらせることはできない。
「相手にどう思われるかは相手の課題だから気にするな」
そう言われても、現実にはその評価で契約が終わることもある。
案件から外されることもある。
昇進に影響することもある。
生活費だってかかっている。
正直なところ、多くの社会人にとって「嫌われる」というのは単なる感情問題ではない。
生存問題だ。
だから『嫌われる勇気』を読むたびに、少しだけ物足りなさを感じる。
嫌われることそのものではなく、
「嫌われた時にどう生き延びるか」
については、あまり語られていないように思えるからだ。
私なりの現実的な答え
フリーランスになってから、特にそう感じる。
結局のところ、本当に必要なのは「嫌われる勇気」よりも、
「嫌われても死なない状態を作ること」
なのではないか。
取引先を一社に依存しない。
技術力を積み上げる。
転職できる市場価値を持つ。
生活防衛資金を持つ。
そういう泥臭い準備があるからこそ、人は初めて自由になれる。
足場のない崖の上で「勇気を持て」と言われても難しい。
安全帯があるから飛べるのであって、安全帯なしで飛ぶのは勇気ではなく無謀だ。
それでもアドラーなら何と言うだろう
ただ、この考え方についてアドラー自身なら、おそらく反論するだろうとも思う。
アドラー心理学では、「課題の分離」はゴールではなくスタート地点だ。
相手と距離を置くための理論ではなく、その後に共同体の中で協力しながら生きるための土台として語られている。
つまりアドラーは、
「嫌われてもいいから好き勝手に生きろ」
と言っているわけではない。
相手の評価をコントロールしようとするな。
だが、自分は共同体の一員として誠実に貢献しろ。
その結果として嫌われるなら、それは受け入れろ。
おそらく、そういう立場なのだろう。
考えてみれば、それはそれで筋が通っている。
相手の感情を支配することはできない。
だが、自分の行動は選べる。
問題は、その理想を実践するためのコストが思った以上に高いことだ。
特に日本の会社組織では。
哲学より先に口座残高
だから今日の私の結論は、とても俗っぽい。
嫌われて失業したら意味がない。
なので、まずは生活基盤を固める。
技術を磨く。
代替可能性を増やす。
そして「この場所がなくなっても何とかなる」と思える状態を作る。
その上で、ようやく少しだけ『嫌われる勇気』を持つ。
たぶん大人の世界では、哲学より先に口座残高が必要なのだと思う。
そんなことを考えながら、今日もまた少し神経を使いながら顧客への返信を書いている。